韓国フェリー沈没事故と3.11、そして福島

あまりにも痛ましいお隣の国でのフェリー沈没事故。

 

人災であることが明らかになりつつあるが、韓国マスコミの対応が気にかかる。

 

自国を三流国家であるとして、自己否定し続ける論調。

 

事故原因などが明らかになるにつれ、遺族や世論に推される形で、朴大統領自らも韓国の国家体制そのものにも根本的な問題がると、国家システムにまで言及。

 

ちょっと前まで、常軌を逸した日本たたきに血道をあげていた国家の世論は、フェリー事故で一変し、自国批判へと形を変えた。

 

日本でも同じような海難事故がかつてあったけれど、その時のことを取り上げた、4月22日の朝日新聞の記事をここで引用する。

 

「多数の死者・安否不明者を出した韓国の旅客船セウォル号の沈没事故をめぐり、5年前に日本で起きた横転事故との比較が韓国で注目されている。乗客数は大きく異なるが、共通点も多いからだ。日本での死者はゼロ。二つの事故からくむべき教訓は何か。

フェリーありあけ号の事故は2009年11月、三重県沖の熊野灘で発生。運輸安全委員会の報告書によると、航行中に高波を受けて船体が傾き、コンテナを固定していたチェーンが破断するなどして荷崩れした。最終的に横倒しになった。座礁したため沈没は免れた。

 ただ、乗客7人と乗員21人は全員無事だった。閑散期で乗客が少なかったことに加え、船が大きく傾いた約35分後、船長が乗客を船内最上部に誘導 するよう指示したことが奏功した。船長らは船に残り、最後は海に飛び込んで救助された。運輸安全委は「積み荷を効果的に固定していなかった」と指摘しつ つ、「船長が指揮する態勢ができており、非常時の対応が組織的に行われた」と事故後の対応は評価した。

 

なぜ日本では犠牲を免れ、韓国では大規模な死亡事故となってしまったのか。

3.11と「もしもの時」の覚悟

 

かつて本ブログでも3.11の出来事について触れたけれど、実はまだまだ触れていない話がある。

それについては時期を改めて触れる。

ここで言いたいのは、「もしもの時」に現れる、個人個人がもっている本性みたいなものだ。

 

・自らを犠牲にすることもいとわず救助に向かい命を落とす者。

・自然の驚異の前にただ見ていることしかできない人。

・震えが止まらず、何が起こっているのかすら理解できずに呆然としてしまう人。

・自らが生き残るためなら、誰が犠牲になろうと関係なくあらゆる手段を講じて助かろうとする人。

 

年齢も、立場も一切関係ない。

事故や災害が起こった初期の行動、そしてその後にやってくる悲惨な現場や、凄惨な状況の中での言動と行動。

すべて出る。人間のすべてが見える。

僕はその目撃者の一人だ。

 

当事者でない限り、絶対にわからないこと。

それが災害の現場、つまり当事者の目の前で繰り広げられる人間模様なのだ。

 

あまりにも凄惨な沈没事故、遺族の思い。

犠牲者は何を思い、どう行動したのだろうか。

なぜ船長は逃げたのか。

助けられたはず、との遺族の思いがうねりとなって、船会社のみならず、国家の緊急事態の行動に怒りの矛先が集中した。

 

人災とも言える事故を防ぐ手段があったのかなかったのかといえば、あったと言うべきだろう。

事前の防災体制、非難訓練、そしてもしもの時の対応について、「あるわけがない」ではなく「必ず起こる」として準備できるかどうか、訓練をしてきたのかどうかが、生死を分ける。

その上でも避けられない自然災害や、事故ももちろんある。

 

大きな災害や事故の当事者や関係者に取って、人の運命や宿命といったことも、避けては通れない精神的なテーマになってくる。

怒濤の困難、トラブルに対して、どう対応すればいいのか。

最後はどこまでいっても個の対応にかかってくる。

しかも自分、家族、周囲の人間関係の中で、人間の本性が現れるのだ。

 

3.11が教えてくれたのは、自衛隊をはじめとした組織やボランティアの、最高に温かい人の心のすばらしさだったけれど、結局は組織に属していようがなかろうが、被災後の生き残った人々を救い守ったのは、どこまでも、個の連帯、人の心の発露としての行動であったということだ。

 

福島の話にも、もはや触れないわけにはいかない思っている。

 

 

 

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