「嫌われる勇気」をもてば、人生の風景が変わる
自分を変えることができるのは自分しかいない
『嫌われる勇気』という本の話である。
アドラー心理学の大家でもある岸見一郎氏とフリーランスライター古賀史健氏が共著。一般的には無名の著者陣による大ベストセラー。
アドラーと言われてすぐにピンと来る人も、だれだそれ? と思う人にも、まだ読んでいない方にも、一読をお勧めしたい。自分の人生観に、最低でも地響きが起こるくらいのメッセージがある。
人はみな、好かれようとして生きている。
人から嫌われてもいい、と思っている人は、圧倒的に少数派だ。少なくとも僕が接してきた学校や職場や家庭、その他、対人関係において、人に嫌われたい、などという人には出会ったことがない。
あんな人とは付き合いたくない、一生ごめんだ、そういうつぶやきはいろんな人から聞いてきた。そうつぶやいた中の一人に僕自身もいる。
ただ「人に好かれたい」ということを堂々と宣言する人も少数派だけれど。
アドラーに関しては、実は類書もいっぱいあって、知る人ぞ知る、ユングやフロイトと並び称される心理学の巨人である。それでもユングやフロイトほど知られていない、というか、あまり好意的に受け止められなかったのはなぜか。
本書を一読してその謎が解けた。
日本人に染み付いている、仏教的な因果律や原因と結果の関連性を完全否定し、教育現場や家庭、職場などにおいても「ほめること」や「しかること」は意味がないことと切り捨てる。
徹底的に「いま」にこだわり、人生とは線ではなく、点の連続であって、だからこそその点である現在という刹那を大切にする生き方を奨励する。
心理学といいながらも宗教的な色彩の強いコトラーの心理学より、科学的とされるフロイトやユングのほうに軍配があがったということなのだろうか。
現に、精神科や心理カウンセリングの現場に立つ医師や心理療法士たちのバイブルは、いまでもユングとフロイトという心理学の二大巨頭だ。
もっと言えば、現在の心理学のメジャーな流れは、ほぼすべてがユングとフロイトの延長上にある。
トラウマとかPTSDとかヒステリーとか、現在の自分は、過去に起きた出来事に大きな影響を受けていて、過去が作り上げた人生が現在の人生であって、人はだから過去から離れて存在できない、という、ある意味非常にネガティブな基礎の上に、現在の心理学は成り立っている。
心理学が科学的かどうか、という議論はともかく、フロイト派かユング派か、心理学はたいがいその両派の衣鉢を継いでいる。
そんな心理学の常識を、アドラーは、いとも簡単に完全に否定する。
まっとうにアドラーを学んだ事のない僕にはかなりインパクトがある内容のオンパレードだ。一方で、ずっと僕が考えてきたことに説得性をもたせてくれるような話もあって、あっというまに読了してしまった。
本書は、全編、青年と哲人という二人の対話篇で成り立っている。
決して簡単な内容でもないし、すぐに理解できるわけでもない。
哲学問答といって差し支えない。
それでいてこの読みやすさは何なのか。
心を揺り動かすアンチテーゼの連続なのに、ありがちな作った感があまりない。
誰かに認めてもらいたい、自分を評価してもらいたい
このような心理的な欲求を「承認欲求」と呼ぶ。誰でも、尊敬する人、先生や上司からほめられたいと思うし(違うという人は本書でいうところの「人生のウソ」にがんじがらめになっている)、ほめられて悲しむという人もそうはいない。
そんな承認欲求など、意味がないと本書では切り捨てる。
親であれ、教師であれ、上司であれ、誰であれ、他者からの期待など満たす必要はないという。
ここで「課題の分離」というコトラー心理学の基本とも言うべき内容が語られていく。
要は、自分の課題と他人の課題を分けて考えること。
親子、先生と学生、上司と部下、縦の人間関係を刷り込まれて生きてきた日本人特有の上から目線的な「指導」や「指摘」は意味がない。
「あなたのためを思って」と人は言う。
けれどその言葉の意味するところは「自分のため」なのだと。
誰もが経験したことがあるんじゃないだろうか。
勉強しなさい、と親が子に諭す時、子どもの課題に親が土足で踏み込んで、子どものためといいながら実は親の見栄だったり、親自身の満足を得るための言葉であることを子どもは瞬時に理解し、その結果として子どもは、それぞれの個性に応じたさまざまな反応で、親に反発する。
哲人が語る。
「およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込む事。あるいは自分の課題に土足で踏み込まれる事……によって引き起こされる」
いやはや、そう言われると、どんだけ過去に自分がやってきたこと、言ってきたことがトラブルの種になっていたのかといやになる。
うーむ。
対人関係の悩みを一変させるのは「他者の課題には介入せず、自分の課題には誰一人介入させない」ことである。これが対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めたコトラー心理学の画期的な視点だというのである。
なるほど。
んなわけないじゃん、人情の世界をこの人はなにもも知らないんだよ、だから人のことなんかほっておけなんて言えるんだ。困ってる奴前にして、ほっとけって、そりゃ人情に反するでしょ。
ところがこの辺から本書は一気に核心に迫っていく。
「自由とは他者から嫌われることである」
「他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを恐れず、承認されないかもしれないというコストを払わない限り、自分の生き方を貫くことはできない。つまり自由になれないのです」
こりゃまた厳しい。
他者の目線を一切気にせず、嫌われることを恐れず、そんなふうに生きている自分を「受容する」。そうすると、そこから見える風景が変わってくると、哲人はのたまうわけだ。
降参、と僕は思った。
そんな生き方、貫けない。
「Aは僕より上だけど、Bは僕より下だ」とか「Aの意見には耳を貸すけどBの意見には耳を貸さない」とか、みなさんありますよね。これはすべて、あらゆる人間関係を縦で見ていることで、横の対人関係になっていくことが重要なんだと哲人は断言しちゃうわけです。
つまりこういうこと。
年長者を敬うとか、上司と部下の関係で友達付き合いしなさいとか、そういうことを言っているのではなく、常に「意識の上では対等であり、主張すべきは堂々と主張する」これが横の関係で、誰か一人とでも横の関係をつくれれば、そこで大きなライフスタイルの転換の道が開けるという。
これがなければ人は自由になれない。
その自由が本当の幸福をつくっていく。
そのためにどうすればよいのか。
いまここにある人生を、その刹那をダンスするように生きていく。
しかも共同体の中にいる一人の人間として。
困難に見舞われた時にこそ、
「これから何ができるかを考える」
「一般的な人生の意味はない。人生の意味はあなたが自分に与えるものだ」と。
えらいことになってきた。
いろんなキーワードが出てくるのだが、アドラー心理学では、自由なる大きな人生指針として「共同体感覚」だとか「他者貢献」をあげている。それが「導きの星」だとも。
他者に貢献するのだ、という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし何をしてもいい。
嫌われる人には嫌われ、自由に生きて構わない。
なんということだろう。
僕がであってきた中で、大きな影響を受けたバリの日本人大富豪のアニキの結論が、実はそこなのだ。
アニキは言う。
「どこまでもいっても人のためや。人のために生きてる人を神さんはほおっておかんのや」
人生の本当の意味は、「いま、ここ」をマジで真剣にダンスしきって生きていくことの中にある。
哲人は、長年アドラー心理学を学んてきた中で一つの気づきを得たというのが本書のクライマックスだ。
それは、「一人の力は大きい」、いや「わたしの力は計り知れないほどに大きい」ということだ。
つまり「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるのではなく、ただ「わたし」によってしか変わり得ないということ。
最近書いてきたテーマの結論にいつの間にか辿り着いた感があるけれど、アニキも、ばななさんも、こうしたことに気づいて生きている。
しかも自らの人生を真剣にダンスする中で、気づきを得ているのだ。
一流は一流を知る。
けれど、知らない自分を卑下することは一切必要ない。
自分がとにかく始めること。
他者は関係ない。
最終的に他者貢献という道を気がつかないうちに、あるいは意識して歩み始めている人が、本物の自由を知り、そのコストとリスクに見合った成功を手にするのだと、本書は教えてくれたような気がする。
成功とは、つまり、そこへ辿り着くプロセスも含めた、他者への貢献の先にあるということなのだ。