真央ちゃんの何がすごいんだろう①

人は死ぬために生まれる

 

人は死ぬために生まれる。

母の子宮からこの世に生まれ落ちたその瞬間から、死へと向かう運命を義務づけられている。

もっと言えば、精子と卵子が受精し、生命が誕生したその瞬間から、死へのプログラムが作動し始める。

 

もうずいぶん前になるけれど、ベストセラーにもなった白石一文の『僕の中の壊れていない部分』(光文社文庫)を呼んだ時の、なんともいえない感慨を、浅田真央ちゃんの世界選手権での躍動でなぜか思い出してしまった。

 

真央ちゃんはなぜ、あんなにもすごいんだろう。

 

SPで大失敗し、そこからフリーの完璧な演技という、完璧な感動の物語を完結させた真央ちゃんは、メダリストよりも圧倒的な注目を浴びた。

 

続く世界選手権では、自己最高得点で金メダル。

 

真央ちゃんに感動する自分がなんだか不思議に思えてくる。

論理など介在しない、人のココロを揺さぶるその正体。

 

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(出典 スポニチアネックスより)

メディアって、なぜこんなにも底が浅いんだろう

メディアって、なぜこんなにも表面的なんだろう。

 

彼女の自伝がポプラ社から発売中止になったのは記憶に新しい。

母の死を広告戦略に使われたことが原因とのまことしやかな噂が業界でかけめぐったが、果たして本当にそうなんだろうか。

 

一度大スランプに陥ったアスリートが復活するのは、至難だ。

 

かのイチローでさえ、「淡々と日々の練習をこなし続ける」「小事の積み重ね」という、あまりにも当たり前のことでしか、壁を乗り越えられないという趣旨の発言を何度もしている。天才と呼ばれる人物ほど、ある意味で当たり前の、そんなんで大丈夫なの? とも思えるやり方で、継続し続けているのだ。努力に見えない努力。そこが、一流の結果を残す人々の共通点の一つなのかもしれない。

 

練習で跳べても本番で跳べずに失敗し続けたトリプルアクセル。

 

浅田は終わった、復活は難しいと報じたメディアやテレビのコメンテーターを何度も目にしてきたが、やはり真央ちゃんはすごい、と今度は周辺の雑音を一切伝えることなく絶賛の嵐。

 

何も小難しい話や哲学めいたものをメディアで展開すべきだなどと主張するつもりはない。

 

でも小賢しいというか、こびへつらいすぎというか、もっと、きちんとした演出抜きの報道ってできないのかな、と正直いつも思ってしまう。

 

僕の中の壊れている部分、壊れていない部分

冒頭に触れた『僕の中の壊れていない部分』という小説の中に、こんな一説がある。

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「物質的な地位や名誉の獲得、競争での勝利や他人からの称賛、そうしたものは単に高く高く櫓(やぐら)をくみ上げていくことに過ぎない。人生の破局である死から、人はそうやって必死に逃れ、遠くへ遠くへ離れようとあがく。(中略)苦難や苦しみを乗り越えることにのみ幸福を見いだしていると、人は最後に死という暗黒の沼にひきづりこまれ、自分を完全に破壊されてしまうのだ」

 

その一方で、トルストイの『幸福論』からこんな引用をしている。

 

「他の存在を幸福のうちに自分の生命を認めさせさえすれば、死の恐怖も永久に視界から消え去ってくれる」

 

この前段に、同じくトルストイの『幸福論』から引かれた引用は、古くて新しい、今を生きるための箴言。なかなか理解は難しいけれど。

 

「人は他人の幸福のために生き、己自身よりも他の存在を愛するような状態。そういう場合にのみ、お前も他のすべての存在も、みなに愛されるようになるし、お前もその一人として、望み通りの幸福をさずかることだろう」

 

自分で自分をほめてやりたい、といったアスリートがいた。

当時(たぶん)まっとうな編集者人生を歩んでいた僕は素直にその言葉を受け止めた。

メダルを取るという「結果」は、自分自身のたゆまざる努力の結晶なのだ、と。。

ここまでがんばった自分自身を、自ら誉め称えてあげたい。

 

でもどうなんだろう。

 

僕が真央ちゃんに感じたシンパシーは、「自分をほめてやりたい」という思考から、はるか遠く離れたところにある。

 

以下は想像だし、勝手な解釈だけれど、ここで書く分には許してもらえるだろうか。

 

真央ちゃんは、常に「死」というものと真正面から向き合って生きている。

 

それはもちろん、最大の支援者であり、かけがえのない存在であった母の死から始まったものだ。

 

「死」というものを乗り越える、とてつもないプロセスの中で、大スランプに陥り、その「死」に真正面から向き合って辿り着いたのが、トルストイの言う「他の存在を幸福のうちに自分の生命を認めさせさえすれば、死の恐怖も永久に視界から消え去ってくれる」という境地なんだじゃないだろうか。

 

僕は、自分が死ぬことで、愛する者たちの幸福が守られるのなら、死んでもいいと頑な思考にがんじがらめになった経験を通して、そこから抜け出す永遠とも思える(実際はたかだか10ヶ月やそこらだけれど)プロセスを通じて、完全に壊れてしまった部分が、自分自身の中にあることを認めざるを得なくなった。

 

どういうことかというと、死にたい人の気持ちがわかってしまった、ということだ。

 

なぜだろう。

 

同じにおいを、真央ちゃんに感じてしまっている僕は、やはり壊れている。

 

軽々しく「あなたのためだ」などと安易に語る人の偽善の言葉に、いちいち説明はしないし、表情にも出さないけれど(出さない努力は少なくともしている)、相当敏感になってしまった自分がいる。

 

それでも真央ちゃんに感じる、僕自身のシンパシーの源は、こんなところにある。

 

 

 

 

 

 

 

 

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