3.11を忘れない③……新潟・山形経由で石巻へ

3月15日早朝、バックミラーから後ろも見えないほどの支援物資を積み込んだ車で、僕は出発した。
父母が生きている。それだけで幾分か気持ちが楽になっていたことは否定しない。

 

それでも、映像で確認していた故郷のことを思うと、悔しくて、悲しくて、訳の分からない怒りや、なんら明らかにされていない犠牲者の中に、縁ある人々がいることは疑いようがなかったし、淋しいとか辛いとか、そんな感情でもなくて、経験したことのない、得体の知れない感情を背負ったままの出発だった。

 

家族や、地元の商店街の人や、なじみの友人・知人たちの、「何もできないけどせめてこのくらいのことはさせてください」という、言葉は違っても思いの伝わるそう言う趣旨の言葉と思いを背負って僕は出発した。

 

事前にネットで調べていた石巻へのルートは、関越経由で新潟から山形を経て、仙台に入るまで。そこから先は被災状況がまるでわからない。

 

幸い、関越から新潟へ向かう最後のSAで、ガソリンも満タンに、都合10リットルになる2つのガソリンの携行缶も満杯にできた。
車の行列を眺めながら、みな、故郷の被災地へ向かう人々の車であることは、満杯の積み荷で見て取れた。

 

まったくの「未知の道」をナビ頼りで山形の天童まで入った時、時刻はたしか18時頃。大雪でもはや先へは進めなかった。

あきらめてようやく泊まれるホテルを探し当てた。

 

すでに天童は、被災地の応援ボランティアの基地になっていることを、ホテルのフロントで、空いていた遅めの夕食をとった居酒屋の女将から聞かされた。

 

一刻も早く故郷へ行きたかった。

 

何時間運転しても、眠気も疲れも、いっこうに訪れなかった。
それほどまでに気が張りつめ、時間の経過が、邪魔をする天候が、疎ましかった。

 

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