3.11を忘れない②……父母が生きていた!

父母が生きていた!

どこのチャンネルも、震災報道一色に染まり、商業CMが消えた。

食い入るようにテレビを見続け、襲いかかる嘔吐に何度もトイレに駆け込んだ。

実家の固定電話も、母と父の携帯も、いっこうにつながらない。
弟とようやくつながった携帯でも仔細は何もわからない。
千葉に住む叔母(母の年の離れた妹)は泣きながら電話をかけてきた。

 

絶望という言葉がこれほど身に迫ってきたことはない。

 

波に飲まれた父と母の映像しか浮かんでこない。

 

とにかく石巻へ行く。

 

二次被害に巻き込まれたら、どうするの?
こんな危険な状態でいくべきじゃない。

 

あらゆる人たちの反対を押し切って、僕は5日目に石巻へ向かうことを決めた。

 

飲み物さえまともに喉を通らない状況の中で、4日目、母からの生存を知らせる衛星電話が入った。

弟と携帯を介して抱き合った。

涙が止まらなかった。

俺がとにかく先に行く。お前は俺の後で入れ替わりに行ける準備をしてくれ。
あうんの呼吸で兄弟は準備を開始した。

 

東京では、あらゆる物資が、心ない人々の買い占め行動によって品薄になっていた。

 

状況はまったくわからない。陸の孤島と化していた石巻の情報は何も入っていなかった。
それでも心ある人たちが、いまから思えば信じられないような、あらゆる協力をしてくれた。

 

灯油、水、生理用品、飲み物、あらゆる種類の食べもの、カイロ、電池、下着、タオル、必須のガソリンの携行缶、ガスコンロとガス缶…。

 

多くの方々の真心は、運転席以外はすべて支援物資で埋まる程になっていた。

 

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